ゆっくり人生

不登校や引きこもりを経験しながら、現在は研究者の登竜門的存在である日本学術振興会 特別研究員(DC1)を務める大学院生のブログ

不登校・引きこもりから難関国立大進学、そして日本学術振興会特別研究員になった話

 

どうも、ユモクです。

ブログ説明文でも触れているように、僕は不登校や引きこもりという過去の経歴に大きなマイナスを持ちながらも難関国立大学に進学し、現在は博士課程に在籍しながら優秀な若手研究者のみが採用される日本学術振興会特別研究員(DC1)を務めています。

このブログはこのように紆余曲折の経歴を持った僕独自の視点で日々考えたいろいろなことを書いていこうと思ってるので、最初に僕の経歴についてまとめたいと思います。

一連の経歴の紹介のため早足になるところはご容赦ください。

部分部分の詳細は今後記事にする予定です。

長くなりますが、興味のある部分だけでも以下の目次から飛んで読んでください。

 

 

【生まれてから小学校卒業まで】

裕福でも貧乏でもない、ごく普通の家庭に生まれました。 

小学生時代は「天才」と評されていましたね。 

テストでは高得点を連発するし、頭はキレるし、運動も出来たし、と自分で言うのもなんですが目立つ存在でした。

 その土台を作っていた要因の一つは、複数の習い事だったと思います。 

ピアノ、水泳、英会話、空手、囲碁、ついでに通信教育とたくさんやりました。 

ただし、問題は習い事の中には自分のやりたいものではないものもあったこと。 

特に経験した習い事の中でも最長期間やったピアノと通信教育は、嫌で嫌で仕方ありませんでした。 

「なんでやりたくもない習い事のせいで遊ぶ時間が奪われ、やりたくないと言うと怒られ、嫌な思いをしなければならないんだ」と何度も親と対立しましたが、なかなか辞めさせてもらえず。 

結局、ピアノは幼稚園から中一まで、通信教育も幼稚園から中学卒業まで続けさせられました。

 もう一つあった大きな不満は、優秀な僕に対する周りの期待値が異様に高まってしまっていたこと。 

係の仕事を押し付けられたり、真面目であることを求められたりと、「いや、勉強や運動ができるからってなんで仕事や真面目な性格まで期待されなければならないんだ」と内心強い不満を持っていましたが、抗議をする勇気は持てず。 

パッと見は順風満帆ですが、僕自身はやりきれない感情を抱えた幼稚園・小学校時代でした。

そのためか、小学校4年生くらいから毎日のように学校に行くと腹痛や怠さに悩まされましたが、当時は原因が分からず…

この兆候に自分も周りも気づいて対処していたら、人生全く違ったものになっていたかもしれません。 

 

【不登校になった中学、そして高校受験】

中学校に上がっても「優秀な子」という僕の立ち位置は変わりませんでした。

むしろ、定期テストで明確な順位付けをされ、学年で上位にいることが数値として出されたことも、僕の評価への拍車をかけました。

中1のときは小学校時代と同様、クラスの中心でいろいろな役目を担当させられました。

そのせいか、明確に気持ちが切れて「学校に通わなければならない理由がわからない」と思い悩んだことを覚えています。

「学校に来てもいろいろ押し付けられるだけだし、勉強なら自分ですれば良いし、学校に来る必要なくない?」、と。 

そのときは、「学校は行かなければならないもの」と信じ込んでいたこともあり、その悩みをなんとか打ち消そうと「学年で一位を取ったことはないし、一位を取ることを目的にしよう」と悩みに蓋をしました。 

結果として、中1の最後の定期テストで主要5教科の学年1位(約200人中)を取りました。 

しかし中2に上がる際のクラス替えの結果、見ただけで「ハズレ」と分かるクラスに配属されました。

クラス発表の掲示を見たときの絶望は今でも覚えています。問題児の比率高すぎ。 

そしてクラス替え早々、一部のグループから言葉によるいじめを受けるようになりました。 

中2という年頃を考えれば起こりがちな「出る杭は打たれる」ことによるいじめ。 

学年の中でも目立っていた僕に白羽の矢が立つのも分かるのですが、被害に遭った身からするとそんなこと知るかという話。 

いじめの内容は軽いものだったのですが、周囲からの過度な期待や優秀でいることに疲れていた僕の心はそれで決壊し、登校を拒否するようになりました。

当時は今より不登校に対する理解が進んでおらず、私の親もその例外ではありませんでした。

無理やり学校に引っ張って連れて行かれそうになったり、精神科医に連れて行かれたりと激しい攻防を繰り広げました。

不登校は病気ではないので精神科医に連れて行くのは訳わからんのですが、そこの先生が笑いながら「学校なんて行かなくていいよ」と僕に言い、親を説得してくれた結果、不登校という安らぎを得ることができました。

しかし、いじめや周囲からの期待から逃れられたのは良かったのですが、学校に行かなくなるといくつかの問題が発生します。大きくは以下の三つでした。

 

①勉強をどうするか?

授業を受けず宿題や課題もきちんと出されないため、不登校になると自分できちんと勉強を進めていく必要があります。

僕の場合、教科書を読めば内容を理解できたので「学習内容がわからなくなる」ということはなかったのですが、モチベーション維持に苦労しました。

そのため、不登校後も定期試験は別室受験していたのですが、成績は落ちました。

 

学校に通っていた頃は学年で一桁順位を取っていたことを考えるとこの結果は非常にショックでした。

 

②受験をどうするか?

不登校になると当たり前ですが欠席日数が著しく増加し、授業に出なくなることで教科の評点も下がり、受験が一気に不利になります。

その中で周りが僕に勧めたのは地元で最も偏差値の高い進学校でした。

その理由はいろいろありましたが、その高校は筆記試験で高い点数を取れば内申書は不問としてくれると言われていたこともあります 。

逆に他の高校だと、内申書がきっちり点数化されてしまいました。

ある意味「地元で最も偏差値の高い進学校を受けるか、内申点が低いことを逆算して自分の学力より一段二段ランクの下がる高校を受験するか」という二択を迫られたとも言えます。

僕自身は、上述のように不登校後しばらくは勉強に苦しんでいたものの、「不登校前の成績を考えれば、受験勉強をしっかりやれば手が届くかもしれない」と楽観的に考えていましたし、何より「不登校を経験した自分がトップ進学校に合格したら面白い」という厨二病思考もあったので、周りからの勧めに乗ることにしました。

  

③友人との関わりをなくすことによる弊害

学校に行かなくて良いのは僕にとって苦しみからの解放であった一方、友人関係という癒しを崩壊させることでもありました。

これまで浅い関係にあった友人は全ていなくなりましたが、親友は付き合い続けてくれました。その親友には今でも感謝しています(ここ数年連絡とってないけど)。

今となっては「『浅い関係の友人に過度に気を遣う必要はない』と考えられるようになる良い契機となった」と思えますが、思春期の当時はとても辛かった…

 

不登校により以上のような弊害に見舞われました。

他にもいろいろありましたが、時間が経ちすぎていて詳しくは覚えていないこともあり割愛します。

不登校になった直後は、この世界を呪いながらベッドの上で一日をやり過ごしました。 

 

ただし、不登校になってから半年ほど経過した中二の12月頃に転機が訪れます。 

僕のことをずっと目にかけてくれていた先生が、「私がサポートするから別室で一日一時間、たまにでも良いから登校してみないか」と声をかけてくれました。 

「少しでも学校に来れば出席日数になるから受験での不利が少しでも減る」や、「君の才能がこのまま潰えてしまうのは惜しい」など、熱意ある言葉をたくさんかけてくれました。

その言葉に感銘を受け、少しずつですが別室登校をするようになりました。 

そして中3になり、勉強は少しずつするようになったものの7月頃の模試でこのままでは危ういという点数を取ったことをきっかけに心を入れ替え勉強に注力し、12月の模試では再び学年一位に返り咲くまでになり、見事地元トップの進学校に合格しました。

人生取り戻せたな、と思えました。そのときには。

 

 

【進学校での違和感】

陰鬱とした中学校時代から解放され、期待に胸を高鳴らせて迎えた高校生活。

僕は人生のリスタートを切れると思っていました。 

しかし、すぐに周りの生徒とのズレを感じました。

周りの生徒のほとんどは優秀な生徒としてここまで学校生活を送ってきた中、中学校で不登校になるという苦い経験をしてきた自分は、筆舌し難い感覚の違いを感じました。 

人生において過去の不登校経験なんて大したことないんですが(もっと大変なことなんていっぱいある)、15,16歳の段階で、順風満帆な学校生活を送ってきた人の多い中での自分の不登校経験は、「自分は異質だ」と感じさせられる大きな要因になりました。 

また、僕は「この高校に入って何かをしたい」というこの高校自体への強いこだわりから進学してきたのではなく、「不登校を経験した自分がトップ進学校に合格したら面白いな」という厨二病マインドからこの高校に辿り着きました。教育方針や校風に魅力を感じた訳ではなく。

僕はなんとなく周囲と馴染むことのできないまま学校生活を送りました。 

それに加え、日中ずっと拘束されるという僕にとってはブランクのある学校スケジュール、退屈な授業、学校生活に疲れても「二度と僕を不登校にはさせまい」と学校に縛り付けようとしてくる周囲の人間の圧力と、息つく隙のない生活を強いられました。 

その生活が入学から7か月ほど続き、その過度な負荷により僕は教室で席に座っていると動悸や過呼吸の症状に襲われるようになりました。 

パニック障害です。

パニック障害について素人の僕が解説するのもアレなのでwikiをご確認ください。

パニック障害 - Wikipedia

教室にいるだけで強い不安に襲われるようになった僕は、再び不登校となりました。 

心身の状態から学校を休むことは仕方なかった、というか必要なものでした。 

しかし、僕自身がパニック障害を舐めていたこと、周囲の人は「コイツは学校に行きたくないから大袈裟なことを言っているだけ」と判断していたことから、まともな治療を受けることなく、ただ一人部屋で陰鬱としていました。 

そして3月、留年が決まりました。

義務教育ではない高校では授業へと出席しないと単位が取得できません。

学校に行かなくなっていた僕は規定の出席日数を満たすことができず、単位を取得できなかった(=進級要件を満たせなかった)ため、当然の留年通知。 

ただその頃の僕は既に高校に通うつもりはなく、「高校卒業程度認定試験を受けて大学に行こう」と考えていたのでショックはありませんでした。

そのため、退学する気満々でしたが、「費用はかからないんだし、とりあえず休学しよう」という周囲の提案を受け、休学することとなりました。 

 

【ドン底の休学期間】

同い年の子たちが高校2年生に進級する中、僕は一人家で勉強をしなければならない生活を始めました。 

最初は正直、不安の中にも期待を持っていました。 

なんたって自分は学校の力を借りずに地元のトップ進学校に合格した実績があると天狗になっていましたから、大学受験も簡単に乗り切れるだろうと、ここから2年間頑張れば行きたい大学に合格することは容易いだろうと、たかを括っていました。 

しかしスタートこそ勉強にのめり込んだものの次第にモチベーションが低下し、勉強が手につかなくなり、家族や数少ない友人に対しても口をつぐむようになり、食事も喉を通らなくなりと、次第に勉強どころか人生への気力も下降させて行きました。 

原因は、所属意識の喪失だったと思います。

中学校までは不登校だろうと「〇〇中学校の生徒」という地位が自動的に与えられていました。たとえ〇〇中学校に複雑な感情を抱いていても、強制的に。 

しかし、高校を休学した状態の僕には何もかもがなくなりました。何者でもなくなってしまいました。

幼稚園以来、好むとも好まずとも周囲の人や行政から与えられ続けていた所属先がなくなったのです。 

これが僕にとっては想像以上に辛いものでした。 

これからの2年間、僕はちゃんとやっていけるのか、そもそもこの生活は2年で済むのか、このまま誰にも知られることなく一人消えていくのではないか… 

このような考えが僕の頭の中で回り続け、悲しみに支配され、「気持ちが落ち込みすぎて死んでしまうのでは」と本気で思うまでに至りました。 

雲ひとつない空を部屋から眺め、「世界はこんなにも綺麗なのに自分は何をやっているんだ」と涙が止まらなくなるような状態まで追い詰められました。

ご飯もろくに食べない、会話もほとんどしない僕を見かねた両親の提案で、高校に再び通う道を模索し、不登校経験など学校に苦手意識の強い子が集まる高校を見つけ、そこに転校することとしました。 

結局、休学期間3ヶ月で新たな道へと進むこととなりました。

 

【再起のための転校】

転校するに際して二つの懸念がありました。 

第一に、自分は留年しているため再び高校1年生となったこと。

つまり、一つ下の年齢の子と同じ学年になったということ。 

しかし、転校先の特性上、一度学校をドロップアウトした子が多かったため自分と同い年、中には年上の人も多くいたのでその懸念は転校初日に吹き飛びました。 

もう一つが、ここまでパニック障害の治療をまともに受けていなかったためその恐怖は付き纏ったこと。 

パニック障害は動悸や過呼吸といったパニック発作自体も辛いのですが、その発作がいつ起こるかわからないため、その恐怖に囚われてしまうという症状もあります(専門用語では「広場恐怖」と言ったりします)。 

自分はその恐怖心が強かった(それを乗り越えるトレーニングをしていないので当たり前)ので、転校先の学校は無理のない範囲で休み休み通いました。行っても一時間で帰るとかしてました。 

一時期、症状が悪化して長期の休暇も挟みました。

しかし転校先の学校はそれを許してくれる雰囲気があったので、そのことに後ろめたさを感じることもなく過ごすことができました。

 

高校3年生となった頃、僕は自分の進路についてじっくり考えました。

「高校進学時のようになんとなく学校を選ぶ態度では、また痛い目を見ることになる」という警戒心、「ここまで散々嫌な思いをしてきたのだから、それを少しでも他人の役に立てるように還元していきたい」という願い、そして「物事を深く考える自分の気質を生かせる職業はないか」と真剣に悩み、「人の役に立てる研究者を目指そう」という希望を強く持つようになりました。 

しかしそのために必要なのは、学歴。 

転校先の高校では快適に過ごすことができましたが、進学より卒業自体を目指す高校であったため、いい大学に入れるほどの学力は備わっていませんでした。 

そしてもう一つ、パニック障害の恐怖を拭えるまでには至っていませんでした。

(このときの自分や周囲には治療するという発想はなく、「根性で乗り越えられる」という精神疾患への典型的な誤解を持っていました)

そのため、「高校は良いところ(ゆるいところ)に巡り会えたからなんとかなったけど、今後予備校や大学にきちんと通学すること」に対しての恐怖を持っていました。典型的な「パニック障害」による「広場恐怖」の悪循環ということができるかもしれません。

転校先の高校では留年することなく卒業までこぎつけられましたが、高卒後は自宅での浪人生活をすることとなりました。 

 

【高校卒業後、2年間の空白(引きこもり)】

先の見えない浪人生活に入り、1年目の前期は宅浪で勉強を進めました。 

高校の休学期間のとき同様、所属はなくなっていましたが、目標があったためか大きな不安に襲われることもなく家で過ごすことができました。 

ただし、進学校を去った経歴もあり、僕に対する両親の信用は無に等しかったので、「お前が一人で勉強できるはずもない」と言わんばかりに予備校に行くことを半ば強制してきました。 

しかし僕が宅浪をしている理由は、パニック障害による恐怖で外に出ることに強い抵抗を抱いていたこと。 

そのため予備校に行くことに前向きになれなかったのですが、行かなければ親が収まらないという状況だったので、後期から近くの東◯に通うことになりました。 

結果から言いますと東◯での予備校体験は失敗でした。 

東◯のやり方も合わず、パニック障害の恐怖にも負けてしまう結果に。

結局、1-2ヶ月ほどで予備校に通わなくなり、そこから一気に崩れ大学受験も中途半端(センター試験のみ受験し、二次試験は受けなかった)に終わり、1年目の浪人生活を終えました。 

 

2年目の浪人生活は1年目の教訓から親になんと言われようとも宅浪を決め込みました。

しかし1年目で疲れ切っていたことからまともに受験勉強せず、相変わらずパニック障害の治療もせず、内実は引きこもりです。 

自分がうまく行かないことを周囲のせいにして呪い、馬鹿にしながら勉強するフリをして過ごした1年間。 

当然のごとく受験は失敗し、3浪目が決まりました。

それに激怒したのが両親です。 

ここまで黙って見てきてやったのに全く芽を出さない息子に対する当たりは非常に強いものとなり、罵詈雑言浴びせられました。

「浪人最後の1年と腹を括り予備校に行くか、親族に頭を下げて仕事を手伝わせてもらうか、死ぬか」の三択を迫られました。 

僕としてはパニック障害による広場恐怖、これまでの親からの過干渉に対する不満(それが転校などいい方向に働いたこともありましたが、トータルだと大きなマイナスになっていたと捉えていた)などもありましたが、全く聞く耳を持ってもらえず… 

話は平行線となり、「このままでは死ぬしかないんじゃないか」と思い詰めた僕は、不登校のときにお世話になった精神科医を頼ることに。 

そこでたくさんの相談をし「パニック障害に向き合って治療しながら、行きたい方向に行きなさい」と諭されました。 

親族のお世話になるとこのまま家に縛られることになるだろうし、死ぬのは嫌だし、大学に行きたいという気持ちはあるしということで、親元を離れ寮に入って予備校に通うこととしました。 

 

【限界に挑戦した予備校生活】

選んだ予備校は代々木ゼミナールでした。 

親元を離れて通える予備校を探していたとき、新聞の広告に目が止まったからであり、特にこだわりはありませんでした。

(自宅通学ではなく費用のかかる寮住みを許可してくれるあたり、うちの親は子どもに対して惜しみなくお金を使ってくれる点ではいい親なのでしょう)

東◯での経験から「予備校なんて信用ならない」と思っていましたが、代ゼミの授業は非常に質が高く、本物の授業に巡り会えたような気がして、勉強にのめり込むようになるまで時間はかかりませんでした。 

朝7時に起き、8時15分に乗り込む電車の中では参考書を読み、9時から授業を受け、お昼休みは昼食を済ませたら参考書を読み、17時頃までまた授業を受けそこから自習室に篭り、21時に寮に戻り夕飯やお風呂を済ませたら深夜2時半まで勉強して就寝、という生活を続けました。 

その前の1年間、引きこもり生活を送っていた人間とは思えない負荷のかけ方です。 

2週間に1回はパニック障害の治療のため病院に行ったり、日曜日の朝だけは目覚ましをかけず気の済むまで寝たりという休息もありましたが、それ以外は上記のような生活。 

さすがに一度身体を壊し、「お腹を壊して両足の感覚がなくなる」という原因不明の症状に襲われました(消化器官の不調による栄養失調だったのか、お腹を治す薬を服用することで2日くらいで治りました)が、新しい知識を身につけ、自分の成績が上がっていくことが楽しくて仕方ない1年を過ごしました。 

また、この年はちょうど代ゼミが業務縮小を発表した年だったのでそのてんやわんやも内部で見ていました。

(東◯より代ゼミの方が圧倒的に授業の質も生徒へのバックアップも上なのに… 予備校業界は授業の質より経営戦略が大事なんですかね)

そしてセンター試験、私立入試、二次試験前期日程と受験し、たくさんの難関私立大学、そして念願の難関国立大学の合格を勝ち取ることができました。 

この1年間は字のごとく受験勉強しかしていない1年でした。 

電車の中では参考書を読んでいたので外の景色は全くといっていいほど見ていませんでした。 

そのため、大学受験が全部終了したのち、諸々の用事を済ませるために寮から予備校への電車に乗ったとき、1年も同じ路線の電車に乗り続けていたにもかかわらず、「あー、この電車はこんな景色の道を進んでいたのか」と新鮮な気持ちで食い入るように外を眺めました。 

長い間結果を出さなかった人間でも、ここまで本腰入れて受験勉強に取り組めば結果はついて来るんですよ。

3年の浪人生活、プラス1年の高校留年もあったので、22歳にしてやっと大学進学の権利を得られました。 

選択したのは、国立大学でした。

  

【22歳でスタートした大学生活】

ストレートで高校を卒業したら18歳(19歳になる年)に大学生活を始めることになるわけですが、僕の場合は高校留年と浪人がかさみ22歳(23歳になる年)で大学生活のスタートを切りました。 

うまく周囲と馴染むことができるのか気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、入学当時は必要最小限の人としか付き合わないと決めていたので個人的には全く問題ありませんでした。 

僕は勉強のために大学に入ったという気持ちが強かったので、サークルなどにも全く興味を持たず過ごしました。 

学部1年の前期はぼっちで過ごし(大学外で友人と会うというイベントは全くなかった)ましたが、後期になると授業などで同じ学部の人たちと関わる機会が増え、次第に友人を増やしていきました。 

引きこもり生活を過ごし予備校時代も孤独に過ごしたため、当初コミュ力0だった僕を受け入れてくれた友人たちの器の大きさたるや…

学部2年生になる頃には、友人たちと自主的に勉強会を開いたり、その打ち上げと称して遊ぶようになるなど違和感なく溶け込めるようになっていました(、と自分では思っています)。 

また、学部3年生になった頃にはそれまで続けていたパニック障害の投薬治療もひと段落でき、大きな区切りをつけることができました。

そのため、外へ出る恐怖とはほぼ完全におさらばでき、海外に研修に行ったり、国内旅行に行くことができるようにまで慣れました。 

就活を始める友人も現れる中、僕は研究者になることを志し大学に来たため、大学院に行く方向で活動を続けました。 

そして学部4年生となり、研究をし、教職課程もとっていたので教育実習に行き、大学院入試に合格し、卒論を執筆し、友人とイタリアに卒業旅行に行き、無事卒業証書を手にすることができました。 

このような経歴を通ってきたことから地元には友達がほとんど残っていない自分ですが、学部時代はかけがえのない友人と出会うことができました。 

3-4歳も年を離れたヤツを邪険にせず扱ってくれて、本当に感謝しています。

  

【修士課程と日本学術振興会特別研究員の採用】

大学を変えることなく修士課程へと進学しました。

所属コースはよくない噂の絶えないところでしたが、僕の指導教員は非常に良い人なのが救いです。 

その指導教員は、僕が修士課程に入る前から、研究者を目指す大学院生なら誰もが喉から手が出るほど欲しいと言っても過言ではない、日本学術振興会 特別研究員(DC)の採用確率を上げるため、いろいろと手を尽くしてくれていました。 

日本学術振興会 特別研究員(DC)について認知度が低いと思いますので簡単に説明しますと、優秀な博士課程の学生のみ採用され、給料(月20万円)をもらいながら学生生活を送れる制度です。

博士課程の学生が優秀さを推し量るとき、所属大学院以上にこれに採用されているか否かがステータスとして問われるといっても良いものでしょう。 

日本学術振興会 特別研究員の中でも博士課程1年から採用されるDC1への応募は、修士課程2年の5月にするものであり、つまりは修士課程1年までの間にアピールポイントとなる研究業績や、評価されるような研究計画を仕上げる能力を磨かなければなりません。

そのため、倍率5倍の採用を本気で狙いに行くためには、修士課程1年から、もっと言えば学部生時代から研究に関する積み重ねをしていく必要があります。 

僕の指導教員は僕が学部生の頃から、研究テーマの選定から学会発表・論文投稿などの計画まで、僕に寄り添いながら導いてくださり、DC1の申請時点までに十分な能力をつけてくれようとしました。 

僕自身がそれにどこまで答えられたかわかりませんが、実際のDC1申請の際には研究計画書の作成のために指導教員だけでなくたくさんの先輩も手を貸してくださり、無事目標どおり2020年9月25日に採用内定の報をいただくことができました。 

正直、2020年度はコロナ禍で研究の方針転換が余儀なくされて研究も思い通りに行かなかった(研究自体が大きく制限されたり、メンタル的に辛い時期もあったり…)のですが、修論は提出できるレベルにはこぎつけ、なんとか修士号をいただけた形でした。 

 

【そして現在の心境 (博士課程)】

博士課程に進学するとともに日本学術振興会 特別研究員に採用されて一ヶ月以上が経過しました。

中高の不登校経験から自分と真剣に向き合い、「研究者になろう」と志し他の人より時間をかけて難関国立大学までたどりつき、そして現在は優秀な若手研究者のみが採用される日本学術振興会 特別研究員とまでなれました。

正直、不登校や引きこもりを経験すると学歴・経歴的な意味での弱者になってしまうため、僕のような立て直し方をする人は少ないと思います。

(不登校や引きこもりの経験があっても幸せな人生を掴み取る人は大勢いますが、学歴ではないところで勝負する人が多い印象です。また、特に引きこもりに関してはそれ以上に再起できない人が多くいます)

なぜ僕がここまで再起できたかを冷静に振り返ると、以下の二つのおかげだと思います。

 

①自分を引っ張り上げようと手を差し伸べてくれる人がいた

不登校になったときに出会った精神科医であったり、不登校状態を打開させようとしてくれた中学の先生だったり、(僕のことを追い詰めることもありましたが)転校を勧めてくれ経済的な支援は惜しみなくしてくれた両親だったりと、誰かが手を差し伸べてくれたことが僕の転機となりました。

そういった人たちがいなかったら絶対に僕はどこかの段階で人生をドロップアウトしていたと断言できます。

つまり、環境に恵まれました。

特に両親には愛憎入り混じった感情を抱いたこともありましたが、離れて暮らしている現在は良好な関係を築いています。

多分、僕と両親の関係はいわゆる共依存のような状態だったので、近くにいすぎるのは良くないのでしょう。

お互いに自覚して、「もう同居はするまい」と言い合っています。

 

②目標を達成することを諦めなかった

中学校のときには「地元のトップ進学校に合格する」、転校先の高校在籍中にできた「人の役に立てる研究者になる」という目標を達成するために手を抜きませんでした。

進学校からは去ってしまいましたし、研究者になるためにまずは大学に進学しなければいけないという段階でかなり躓きましたが…

ただ、進学校に合格していなければ「自分は学力で勝負できる能力がある」という自信を持てていなかったでしょうし、大学に入るまでに時間をかけたことで嫌な思いをした代わりに強くなれましたし、自分の限界に挑戦することもできたかな、と現在は肯定的に捉えています。

世間的に見たらマイナスに思えることでも、自分の中で前向きに捉えられているのであるから、今のところ人生うまく行っているのでしょう。

 

◯今のパニック障害の病状について

(注:僕の症状はお医者さんによっては「パニック障害とは別の病気ではないか」という症状なのですが、最初に診断されたこと、自分であらゆる病気について調べても一番症状を説明できるのがパニック障害であることから、「パニック障害」で話を進めさせていただいています)

16歳のときに発症し、長年僕を苦しめ、21歳でまともに投薬治療を開始し、25歳でそれを終えたパニック障害ですが、再発率の高い病気としても知られています。 

かく言う僕も、再発と言うほどのレベルではないかもしれませんが、大学院に入ってからストレスなどを引き金に2度ほど、動悸や過呼吸といった症状に襲われたことがあります。 

しかし2度とも2-3ヶ月の服薬で治りましたし、自分としても「薬である程度コントロールできるなら想定の範囲内かな」と思っていますので、個人的にはそんなに気にしてません。

今後は、酷くなっても引きこもらずに上手く付き合って行き、症状が顔を出す頻度を下げていって最終的に0になってくれればと気長に捉えています。 

 

◯なぜブログを始めたのか?

「人の役に立つ研究者になりたい」という思いから研究の道を選び、不登校や引きこもりなどの困難を超えて、日本学術振興会 特別研究員(DC1)にまで到達できました。 

「研究者として将来有望じゃん」とか「人生逆転できたね」とか言われますが、現在の僕はこのまま研究者を目指そうか非常に迷っています。 

そこで自分の思考を少しでも整理しようと始めたのがこのブログです。

そのため、しばらくは自分のこれまでの過去に関する記事や日々考えたことを深堀するような記事が多いと思います。 

お付き合いいただければ幸いです。

 

以上、約12,000字の記事にお付き合いいただきありがとうございました。

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